ニューマンの創業秘話
当社の社名は、かつて存在した文具メーカーに由来しています。
ニューマンは、当社の創業者である大郷嘉子の父 皆川辰三により設立されました。 皆川辰三は、埼玉県入間郡大東村(現在の川越市)に貧しい農家の次男として生を受け、尋常高等小学校を卒業した後は、丁稚奉公に出されて、銀座 松村時計店、山崎商店(田中貴金属の前進)などで職人として働く中で、時計屋として独立する決意を固めました。
しかし、1937年から始まっていた日中戦争の拡大により、1940年に軍隊に召集され、満州(現在の中国東北部)―中支(中国中部)―台湾―フィリピンなどを転戦の末に召集を解除されました。家族には、銃声が聞こえて伏せると、周りの兵士が倒れていたといった、死線を潜り抜けてきた経験を話していたそうですが、経済誌『オール生活』の取材に対しては、各地を転戦しながら帰国したら独立をしようと考えていたと語っています。
しかし、帰国すると戦争の激化に伴い時計屋は女子工員が中心という状況となっていて、25歳の若者が時計屋を開業しても、すぐに徴兵されることが予想されました。そのため、自身が軍隊時代に通信兵をしていた時に使用していた、軍用電話機の下請けメーカーに勤めて、改めて経験を積みました。当時は、軍需産業に従事する技術者は徴兵されにくいという事情がありました。
創業者 皆川辰三は、独立したいという目標があるものの、工場を作るだけの資本がありませんでした。それを親しい友人に相談したところ、応援しようと言ってくれて、更にその友人へと支援の輪が広がり、1942年に資本金19万5千円で武蔵航空兵器という会社を設立しました。資本金のうち自己資金は2万円のみで、あとは無担保で借り入れたものでした。川越市で、肥料屋の倉庫を借り、10人程の従業員で、中島飛行機の下請部品工場としてスタートをしました。しかし、その矢先に思惑に反して、またも徴兵されてしまい、後事を友人に託して出征し帰国して間もなく終戦となり、軍需産業であったことから解散を余儀なくされました。
発足間もなくのことであり、利益は少なく会社を精算した時には6万5千円の現金しかありませんでした。それを出資者に払って猶予してもらい、売ろうにも売れない機械を使用して、金属製のパイプや農機具部品など様々なものを製造しました。当時のことを、皆川辰三は「金銭的に親から何一つ譲り受けたわけではない。元がゼロからのスタートなのだから、ゼロになったって、スタートに戻っただけだ。悲観しようにも、悲観のしようがなかった。」と語っています。
その時、銀座の山崎商店のシャープ部(ホシエス)で、シャープペンシルの製造販売をしていたことを思い出し、当時同社の工場で働いていた人を訪ね歩き、そのうちの一人を住居提供という条件で強引に引き抜きました。それから、毎日二人で型作りを行い、終戦の翌年にあたる1946年に最初の製品が完成します。三越デパートに売りに行き、「戦後、こんなに早く作れるわけがない」と信用されなかったものの、デパートは戦前からのストックを細々と販売する状況であったため、すぐに購入して頂いたたそうです。その後、順調に製造販売数を伸ばし、1948年には大阪に支店を出しました。
1954年8月に、それまで辰和製作所の名前で文具を製造をしておりましたが、東京都中央区宝町(現在の京橋区)で株式会社 辰和を設立し法人化しました。その後、1963年には株式会社ニューマンに商号を変更しました。その後、本社ビルを東京都中央区銀座一丁目に移しました。上記の写真は、銀座一丁目にあったニューマンビルのものです。
1964年には、シャープペンシルが他の筆記具に比べてシェアが高くない時代にもかかわらず、1カ月に15万本を出荷する日本一の企業となりました。この創業にまつわる秘話は、株式会社 実業之日本社様が発行する経済誌『オール生活』の昭和39年1月元日新年特大号に掲載された内容です。本田技研社長の本田宗一郎氏や、リコー社長の市村清氏などと共に特集されており、当時の勢が偲ばれます。その雑誌の紙面を、以下に転載します。


出典 : 『オール生活』 昭和39年1月元日新年特大号 (株式会社 実業之日本社)
※ 株式会社 実業之日本社ライツ管理室様より、本件について使用承諾を頂いております。
また、掲載が古いことから、パブリックドメインであるとして無償での使用を許可頂きました。
株式会社 実業之日本社様には、重ねて御礼申し上げます。
実業之日本社様は、明治30年に経済雑誌『実業之日本』を創刊し、「実業」という言葉を仕掛けられました。
株式会社 実業之日本社 公式ホームページ URL : https://www.j-n.co.jp/company/trivia.html
ニューマンの社名にかける思い
ニューマンは、1963年に株式会社 辰和からニューマンに社名を変更しました。しかし、それまで辰和製作所の時代から製造していたシャープペンシルにも、NEWMANという英語表記を刻印して製造・販売をしていました。製品のブランド名のような扱いです。
ニューマンは、直訳すると「新しい人」という意味になります。前述の創業秘話で、記載しているとおり、創業者 皆川辰三は時計屋を志しており、その後は軍需産業に転身し、終戦によって全てを失いましたが、”なくてもともと”と持ち前のポジティブな性格を発揮してシャープペンシルの製造に乗り出し、翌年には製品を完成させるという、3度も生まれ変わるような経験をしました。
経済誌『オール生活』の取材に対して、その冒頭で、「新規に独立を希望する者と、事業の転換を考慮する者と、本質的には同じである」として、一括して”独立敢行法”を伝えています。それは、まさに0からの創業と、第二創業を一人で行った自身の経験に裏打ちされた回答だったと言えます。
余談になりますが、高度経済成長期は、外国市場に日本の企業が進出した時代であり、それまで法人名には漢字を使用するのが一般的でしたが、社名を横文字にする企業が多く出現した時代でもありました。
例えば、シャープ株式会社は、早川式繰出鉛筆の名でシャープペンシルを世に送り出した創業者 早川徳次氏にちなみ「早川電機工業株式会社」という社名でした。しかし、1970年に同社の代表的な発明品であるシャープペンシルにちなみ、シャープに社名を変更しています。また、日本でいち早くフランチャイズシステムをとり入れ、ミスタードーナツなどの外食産業も展開するダスキンは、乾いているのにしっかり埃が取れるとして当時「魔法のぞうきん」と言われた化学ぞうきん「ホームダスキン」が全国で発売されたことにより、1964年に社名を「ダスキン」に変更しました。創業者 鈴木清一氏が「株式会社ぞうきん」にしようと発案したところ、内部で反対があり、英語の「ダストクロス」と日本語の「ぞうきん」を掛け合わせて、「ダスキン」となったそうです。
株式会社ブリヂストンは創業者 石橋正二郎氏を英訳したブリッジストーンにちなんで社名をつけていますが、太平洋戦争で米英で使用されている英語は、敵性外国語とされ、軍部の要請により1942年2月に「日本タイヤ株式会社」に社名を変更し、終戦後の1951年に社名をブリジストンタイヤに再変更するということがありました。
ニューマンが創業したのは、終戦の翌年で、英語を制限しようという風潮があった時代でした。また、当時は前述のとおり社名や屋号には、漢字が使用されるのが一般的であったため、辰和製作所の名前で創業し、その後に法人化した際にも、そのまま株式会社 辰和の名称を用いていました。しかし、製品のブランド名には「ニューマン」を継続して使用していました。 既述の他社の例のように、法人名に横文字を使用することが広まった時代に、長くブランド名称として使用していた、NEWMANを法人名に使用して、「株式会社ニューマン」という社名に変更することとなりました。
ニューマン製品へのこだわり
ニューマン創業者 皆川辰三は、1947年に現在広く普及しているノック式シャープペンシルの改良に関する2つの特許(実用新案)を出願し、昭和24年に特許権(実用新案権)を取得しました。
ノック式シャープペンシルは、それまでもありましたが、1960年にハイポリマー芯が開発されるまでは、芯が非常にもろかったため、折れやすいものでした。辰三は、機構の改良によってその弱点を克服しようとしました。3方向から挟み込んで芯を抑える、現在のノック式シャープペンシルに近い構造の製品であったことが分かります。現在は、芯の強度が強くなったため、芯を抑えるチャックは、点で抑え込む構造ですが、当時は芯が脆かったため、板バネと呼ばれる弾性のある板で3方向から挟み込むように"面"で抑えて、芯が折れないようにガードする構造でした。
この、シャープペンシルの機構の構造によって、芯をガードして折れないようにするという開発理念は、ハイポリマー芯が開発されて、1947年にニューマンが開発したノック式シャープペンシルの機構が廃れても、継承されていることとなります。
1971年4月7日に、ニューマンは世界で初めての0.2mm芯シャープペンシル『ニューマンスーパー2』の発表を行いました。スーパー2は、0.2mmという究極の細芯を、口金とガイドパイプを分離させて、パイプが芯をガードしながらスライドし後退していく「パイプスライド式」と呼ばれる方式で、芯を出さずに書ける構造になっていました。また、同年7月27日には、ガイドパイプに関すると思われる特許(実用新案)権の公告が、特許庁を通じて出されています。
しかし、このニューマン スーパー2については、発売された年を客観的に示す証拠がなく、株式会社ぺんてるが1973年に発表したPS1042が世界で初めての0.2mm芯シャープペンシルであるとしていました。しかし、文具王として知られる高畑正幸様が、この件で調査を行って頂き、2020年に当時の業界新聞「ステイショナー」の記載からニューマン スーパー2が世界で初めての0.2mm芯シャープペンシルであることを証明してくださいました。当社は、本発表を受けて株式会社ぺんてるに訂正を依頼し、同社は訂正を行いました。
【参考】文具王 高畑正幸様(※)の公表資料URL : 0.2mm芯シャープはどこが最初なのか
※ テレビ東京の人気番組「TVチャンピオン全国文房具通選手権」に出場し、1999、2001、2005年の3連続で優勝し「文具王」となられました。文具メーカーの商品企画・マーケターを経て独立され、文房具情報を日々発信されています。
すでに令和の世になっているにもかかわらず、文具王こと 高畑正幸様には、このような調査をして頂き、非常にありがたいと思っております。また、かねてより、インターネットなどで、未だにニューマン製品を収集されている方が少なからずいらっしゃり、ニューマンの会社について詳しく知りたいというお声を拝見されていたことも手伝いまして、当社では社史について公表を積極的に行うようになりました。
このニューマン スーパー2などに使用されているパイプスライド式について、1972年に株式会社 暮しの手帖社様が発行されている生活雑誌 『暮しの手帖』に掲載をして頂いたことがあります。当時は、現在一般的となっている0.5mmのシャープペンシルですら、細芯と言われていた時代に、コーリン、セーラー、トンボ、パイロット、プラチナ、ぺんてる、三菱といった大手文具メーカーの0.5mm芯シャープペンシルの性能を比較した「シャープペンシルをテストする」という内容です。
出典:『暮しの手帖』1972年 No19 (株式会社 暮しの手帖社)
注釈 :「キミのは細い、マチャアキよ」は、堺正章さん出演のテレビCM「三菱シャープ03 キミのは太い」より
協力:株式会社 暮しの手帖社 公式ホームページ URL : https://www.kurashi-no-techo.co.jp
このテストの中で、「ニューマンだけはあまり折れない」という評価を頂きました。、折れにくい理由は、「ニューマンはパイプすれすれに芯を出して書く。しかもこのパイプが芯がへるにしたがってひっこむので、常にパイプに保護されながら書くことになる。折れにくいわけである。」と記載されており、シャープペンシルの先のパイプが、中に引っ込む「パイプスライド式」と呼ばれる構造であるからとされていました。

出典:『暮しの手帖』1972年 No19 「シャープペンシルをテストする」 (株式会社 暮しの手帖社)
また、パイプスライド式のメリットとして、「細いパイプが口金の先に突きでているために、ポケットなどにさすとき、目のあらい布地だとひかかったりする。バックの中に入れておいて、何かにつよく押しつけられたり、まちがってとり落としたりしたとき、そのためにパイプが曲ってしまうおそれもある。そうなると、芯がそこを通るたびに中で折れてしまうといったことになりやすい。この点、ニューマンは、使っていないときは、パイプが口金の中に引っ込んでいるから、その心配はない」と記載されています。
暮しの手帖社は、ニューマンと同じく終戦の翌年にあたる1946年に東京銀座で創刊されました。役に立つ商品を広く消費者に伝え、また本当に良いものをメーカーに製造してもらうために、代表的な企画である「商品テスト」を実施し、生活者の立場に立った実証主義のテストは高く評価され、多くの読者に支持されてきました。商品テストは厳正であり、企業名をあげて批評されています。また、商品テストを厳正に行うために広告を掲載しないという徹底ぶりでも知られております。そのような、厳正な商品テストの結果、ニューマンは2位のぺんてると倍近い差をつけて一番折れにくいという評価を頂きました。
しかし、厳正なテストで知られる同誌は、手放しで賞賛していた訳ではありません。パイプスライド式は、あまり使い慣れていないと、書く時の角度によって、ガイドパイプが紙を擦ってしまう恐れがありますが、それもしっかりとリサーチされていて、「書く角度によってパイプが紙をこすり、書き具合はありよくない」と、書き心地については、芳しくない評価をされていました。
また、最終的な総括として「このごろのメーカーは、いったいに、自分たちの作るものに愛情を持っていない、その一つの例が、この細い芯のシャープペンシルである。0.5ミリといえば、1ミリの半分である、そんな細い芯を使えばだれが考えたって、これは折れるに決まっている」とし、更に「6センチ1本の芯で、平均3回も4回も折れたのでは使いみちにならない。ためしに、0.9ミリの芯を入れるシャープペンシルを使ってみたら、6本あたり、平均して1回折れるかおれないかであった。こんなことは、ちょっと使ってみればすぐわかることで、メーカーは百も承知のはずである、それを承知しながら、細い細いと、芯の細いことばかりを宣伝して売りつけるのは、使う方に対して不親切なことは言うまでもないが、自分たちの作っているものについて、少しも愛情を持っていない仕打ちだと、言わなければなるまい」という、消費者に真に良いものを広めることを目的としている同誌のスタンスが端的に示された、実に舌鋒鋭い批評が掲載されていました。最終的な結論としては、0.5mm芯も0.9mm芯も書き味に大差はないとして、0.5mm芯は推奨されないというものでした。 同誌が発行された1972年当時は、0.5mmのシャープペンシル芯が発売されてから10年程が経過しており、それまでは0.9mm芯が主流で、現在は標準的な芯径である0.5mmの芯は、細芯とされていました。
同誌の「キミのは細い、マチャアキよ」という副題は、1971年に堺正章さん出演のテレビCMで、0.3mmの芯径が使用できる、三菱シャープ03という製品のCMで、「キミのは太い」というキャッチフレーズが話題となったことに対して、細すぎるという含意があります。また、既にご紹介のとおり、同年にニューマンが世界で初めての0.2mm芯シャープペンシル ニューマン スーパー2を発表しており、この年がシャープペンシルの芯径の常識が変わっていく転換期であったことが分かります。
このように、0.5mmの芯径のシャープペンシルに対して、全体的に懐疑的であった同誌の評価ではありましたが、このように厳しいテストと厳正な評価で知られる同誌において、唯一ニューマンだけはあまり折れないという評価を受けたことを、ニューマン創業者 皆川辰三は大変喜び、同誌の掲載紙面を自宅に持ち帰り、娘の嘉子に見せていたそうです。
近頃のメーカーは、自分たちの製品に対して愛情を持っていないと総括し、6センチ1本の芯で、平均3回も4回も折れたのでは使ものにならないと結論づけている同誌のシャープペンシルのテストにおいて、パイプスライド式を採用し、機構によって芯が折れにくい製品を製造し、筆記中に折れた回数は1.5回という、2位の株式会社ぺんてるの製品と倍近い好成績を収め、6本あたり平均して1回折れるか折れないかという0.9mm芯と遜色のない結果を残し、「ニューマンだけはあまり折れない」という評価を受けたことは、皆川辰三にとって、製品開発に対する愛情が評価されたと感じられたからかも知れません。
ニューマンのその後
文具メーカー ニューマンは、1983年に創業者である皆川辰三が癌により62歳で急死してしまい、後継者の問題によって、1984年に自主廃業を余儀なくされました。
その3年後の1987年に、皆川辰三の娘である大郷嘉子によって、株式会社ナチュラルという会社が設立されました。大郷嘉子は、父 辰三の事業に興味をもち、子どもの頃から仕事の話を聞いて育ちました。辰三は、そんな娘に事業の話やシャープペンシルの製造方法などについて、熱心に語っており、前述の世界で初めて0.2mm芯のシャープペンシルを製造したことや、『暮しの手帖』にニューマンのシャープペンシルが掲載されたことも、辰三から聞いていたそうです。
経済誌『オール生活』に掲載されていたとおり、皆川辰三は事業について、娘 嘉子に「なくてもともと」という自らの考え方を伝えていました。また、自身が無担保で借金をして起業をしたことについても「借金は資産だ」と語っていたそうです。負債であっても、それは事業家としての信頼を寄せて借り入れができるので、それは単なる借金ではなく、貸主からの信頼であるという意味です。その他にも、事業を行う上で大切なことや、失敗談も含めて様々な経験を聞いたそうです。
この言葉を胸に、大郷嘉子は母親の実家の一室を借りて、1,000万円の借り入れを行い、夫が株式会社ダスキンに勤めていた縁で、ダスキンフランチャイズチェーン加盟店として起業しました。株式会社ナチュラルという社名は、株式会社 辰和が商号をニューマンに変更した時期に、記述のとおり社名を横文字にする企業が多く出現しており、また「横文字の会社は伸びる」という一種のジンクスのようなものがあったそうです。社名をナチュラルという英語名にしたのは、それに倣ったものでした。
また、父 辰三が自らの人生を社名に投影してニューマンと命名したように、嘉子は自ら思うままに生きてきた自らの人生を投影し、自然体で生きたいという思いも込めてナチュラルという社名にしました。女性の社会進出が抑制されていた時代に、父の反対を押し切って大学に進出し、留学も果たし、自ら起業するというのは、非常に珍しいことでした。父 辰三は、嘉子に事業の話をする度に「お前が男だったらな」と言っていたそうです。
その後、順調に売り上げを伸ばしました。平成10年には、自らがワーキングマザーとして苦労した経験と、もともと児童福祉の分野に興味があり東北福祉大学で学んだ経験から、東京都武蔵野市で当時は珍しかったベビーシッター事業を開始しました。その後、平成24年に息子 大介に代表職を譲り勇退しました。
ナチュラルの創業者 大郷嘉子は、父 辰三から教わった経営哲学と、自らの経験を息子 大介にも伝えていました。息子 大介は、かつての嘉子のように、事業に興味をもち、子どもの頃から母の経験や知識、祖父の事業家としての足跡を聞いていたからでした。そして、母に多大な影響を与えた祖父に興味を持ち、自らもその足跡を調査しました。事業継承が行われた当時は、同社の主要事業が斜陽であり、事業転換を迫られていました。後を継いだ大介は、祖父が1からの創業だけではなく、第2創業までやってのけていたことを知り、「新規に独立を希望する者と、事業の転換を考慮する者と、本質的には同じである」という祖父の言葉に大変勇気づけられました。創業は非常に大変なことは言うまでもありませんが、事業転換も「第二創業」と言われるほど、起業家としてのマインドと努力が求められるからです。
それにより、不動産賃貸業の拡充や、ダスキンFC事業における役務の提供事業の開始、認可保育事業の開始などにより、従前の規模から急拡大し、従業員が100名を超え、資本金を1億円に増資し、中小企業基本法の定めるところの中小企業の枠組みから外れました。
また、現代表者である大郷大介は、母と自身の経営者としての人生を歩むきっかけとなった祖父の足跡をより詳しく調査し、その情報発信を行うと同時に、会社が新たに生まれ変わったことを記念して、令和4年1月1日にかつて存在した文具メーカー株式会社ニューマンの商号を継承して、社名を変更しました。
かつてのニューマンをご存じの方には、文具メーカーとして認識されていることでしょう。しかし、ニューマンの創業家の中では文字通りニューマンとは、新生を意味し、起業精神そのものとして受け継がれています。
会社情報
| 会社名 | 株式会社ニューマン(英語表記 NEWMAN CO., LTD.) |
|---|---|
| 設 立 | 昭和62年2月10日 |
| 事業内容 | 認可保育所 ダスキンFC事業 ベビーシッター |
| 住所 | 本社所在地 :〒005-0012 北海道札幌市南区真駒内上町2丁目1-7 事務センター:〒180-0002 東京都武蔵野市吉祥寺東町3丁目1-8 |
| 電話番号 | 保育事業:0120-892-414 / ダスキン事業:0120-444-966 |
| メールアドレス | info@new-man.co.jp |

